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唯今 Chapter: 4
「間から面(PICTURES IN THE MIRROR)」

 

金沢21世紀美術館 SIDE CORE presents Living road,Living space|生きている道、生きるための場所内
唯今 ('m Home) by 細野晃太朗

[作家/ARTISTS]
-添田奈那 | SOEDA NANA
-DAISAK
-岩村寛人 | IWAMURA KANTO

 

SIDE CORE PRESENTS「Living road, Living space」内で展示されている細野晃太朗によるパラサイトギャラリー
「唯今('m home)」では、添田奈那、DAISAK、岩村寛人の三名による展覧会「間から面(PICTURES IN THE MIRROR)」を開催します。

仮面とは、かつては人と世界との関係を編成し直す装置であった。それは神々や悪魔が棲む原初的な魔術世界への回路であると同時に、身体の限界を越えて自我を外在化するための構造であり、他者との距離や恐れを調整する媒介でもあった。(中略)日本文化において仮面は「面」あるいは「表」と呼ばれ、平面や表層を意味する語として理解されてきた。この表層は、内部を隠す皮膜であると同時に、外部との関係が立ち上がる場所でもある。つまり「表」とは、内と外を分ける境界線ではなく、両者が交錯し、意味が生成される厚みをもった領域、いわば建築的な「間」である。仮面はこの間に留まることで、身体と世界の関係を一時的に再編成する。
(展示作家の一人である岩村寛人が記した文章の一節から引用)

この2017年に岩村が書いた一節を2026年に読むことになった。おそらく、彼を「間から面(PICTURES IN THE MIRROR)」に誘わなければこの文章がわたしに届くことは無かっただろう。
二面性もしくはさらに多面的な性質を持ってして活動する
三人による展示について思案している中で「間(あいだ・ま)」「面(おもて・めん)」という言葉が浮かんだ。どの地点から見るかによって面は裏に代わり、裏は面に変わる。
現代では誰もが安易になりたい自分に成るためにSNSという名の仮面を装着することができる。それはある地点の自分ともう一方の地点の自分を確認し、行き来するための装置であり空間であった「仮面」ではなく、自分をなにかから隠すため、いわゆる分断や防御を求めて装着されるものだがそもそも分断や防御とは何と何を分けるものなのだろうか。

1994年に公開されたジム・キャリー主演の映画「MASK」
の主人公であるスタンリーは小心者の自分に嫌気がさしていた。言いたいことも言えず、自らを社会の中で弱者のように感じていた。嫌気がさす日常生活の中、ひょんなことから拾ったマスクを身につけるとなりたかった(と思っていた)自分に成ることができ、富も名声も手に入れた。しかしいつしかそのマスクを脱ぐことができなくなり、徐々にマスクそのものに乗っ取られてしまう。
アメリカの映画なので物語はハッピーエンドを迎えるが、
30年も前に作られたこの映画によって現在のSNSとの関わり方、あり方を改めて考えさせられる。(わたしはこの映画が大好きだった)
スタンリーで無くとも、誰もが仮面を被ることが許されそれが普通になった今、本来の自分、というのは仮面を装着している時、していない時のどちらか、ということではなくその両方が存在することによって現れる「間」なのかもしれない。その「間」は、裏でも表でもない、いたってニュートラルな世界だ。

添田は愛と怒り、かわいいときもちわるいの二面性を、DAISAKはある意味での陶器ブランドの長と工芸や用途から離れた作品を作る作家としての二面性、そして岩村は建築家とアーティストという立場の二面性を携えている。
このそれぞれの二面性はグラデーション空間が無く、はっきりと線引きされているわけではなく、共にあることによってどちらも成立するとわたしは考える。それぞれの二面性の間に立ってみるとどちらも面なのだ。

彼らは「面=間」としての作品をつくりつづけることによって自我を、そして世界を認識することができる。

二〇二六年一月七日

2026

© 2024Nana Soeda.

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